面白い小説の書き方

面白い小説の書き方について

マルドゥック・スクランブルの面白さについて一人のラノベ作家が思うこと

f:id:toraha:20180323202734j:plain

久々に読後に痺れるような余韻の残る作品を読んだ。
フワフワとした酩酊感に襲われる、どことなく非現実的で心地よい気怠さ。
ほうっと溜息をつき、物語が終わってしまったことを残念に思う。

 

マルドゥック・スクランブル』との出会いは、もう10年ほど昔になるだろうか。
大阪は天王寺の書店で、評判の良さから目についたときに購入した。
当時たしか新装版が出始めた頃で、新装版で買い揃えるべきかどうか、少し悩んだ記憶がある。
結局、一番古い版で(初版と言う意味ではない)買い、そのまま本棚の数ある積読本の一つになってしまった。
三冊の本なのに、2巻と3巻が売り切れていて店頭になかったためだ。

そうして非常に長い年月を、忘れられ、あるいは積読の罪深さゆえに目を逸らされ続け本棚に並びながらも読まれることなくひっそりと佇んでいたこの作品は、2018年になって、再び私の手元へと戻ってきた。

 

きっかけは友人である井の中の井守先生の推薦だった。
たしか、三人以上の台詞回しで手本となるべき秀逸な作品はないか、という発言に対してだった。
その頃、私の自分の作品への課題として、「複数人数での台詞におけるスムースな理解の提供」があった。

 

書き手になると分かるが、複数人数が違和感なく台詞を喋らせることは、存外難しい。
映像作品、あるいはゲームでは誰が言っているのかを、台詞の違いで負担なく理解させるのは大変な技量が求められる。
また、何々が言った、口を開いたなどを連続して使いたくないと考えている作家は多い。
だから、多くの作家は複数人がいても、結局会話をしているのは二人だけ、というケースが多くみられる。
私もこの手法をよく使うのだが、やはり複数人で話せた方が場面としては適切だ。

この課題を上手に解決していた作品に、あの『涼宮ハルヒ』シリーズを挙げられた作家も過去にいたので、参考にされるとよいかもしれない。


とかく、私は推薦に従って、また興味を掻き立てられ、マルドゥック・スクランブルと再び向き合うことになったのだった。

この作品は、熱量が恐ろしい
私に技術的に書けるかどうか、と自問自答したところ、書けるだろう、という判断が下った。


だが、最初の書き出しから文末に至る徹底したこだわり、それこそ一文一文への熱量を、私がそこまで注げるか、注いだことがあるかと問われれば、答えは否だった。
この作品はあとがきにも書かれているが、作者自身の偏執的なまでの、あるいは狂気に囚われたかのような地の文章へのこだわりが読み取れる。

 

本来、小説の面白さは台詞まわし、あるいは心情描写にあると言われている。
地の分は静に対して、台詞などは動の位置づけにあるためだ。
物語が動くには、台詞が中心になる。

ところが、今作においてはどう考えても、台詞の力よりも地の文の積み重ねの影響が大きかった。

思うに、台詞の力は即効性は高いが、すぐに醒めるのではないだろうか。
熱いお風呂に浸かってサッとあがると、意外とすぐに涼しくなるように。

地の文は、少しずつの積み重ねだ。一文一文では大した影響を受けない。
でもそれが積み重なると、気付いたら体の芯まで熱が篭もり、どうしようもなく熱くなる。
半身浴などで芯まで温もると、いつまでも湯冷めしないように。

 

マルドゥック・スクランブルの面白さについては、多くの読者がすでに書評を書かれているだろうから、多くの紙数は割かない。
だが、主人公バロットのカジノシーンは圧巻の一言だ。

これほど引き込まれたのはジェフリー ディーヴァーの『ボーン・コレクター』以来かもしれない。
思えばこの作品も徹底的に科学捜査についての透徹としたこだわりが見えたものだ。

 

こだわりは美しい。

生半可な執着は見苦しいが、徹頭徹尾こだわった作品は、心を打つ。

 

冲方先生は、たしか以前にライトノベル創作についての本も出されていて、読んだ覚えがある。
骨書きや筋書きなど、5つぐらいの段階を踏んで書かれているのだったか。
いま読み返してみても、新しい発見がありそうで楽しみである。

 

 

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

 

 

 

新装版 冲方丁のライトノベルの書き方講座 (このライトノベルがすごい!文庫)

新装版 冲方丁のライトノベルの書き方講座 (このライトノベルがすごい!文庫)